本研究グループの目指すところ

1.1 現状の問題点

これまで,新しいネットワークアーキテクチャを論じる際には「既存の通信技術を統合し,かつ,すべてのユーザあるいはアプリケーションの通 信要求を満たす」ことが当然の必要要件とされてきた.しかし,インターネットの成功,さらに最近のIP Convergenceがわれわれに与えた教訓か ら,そのような単一のネットワーク技術はもはや存在しえないということは明らかである.IPの場合には,

  1. ネットワーク層(インターネット層)において下位層のあらゆる技術を集約することによって,上位層に対する影響を最小化できる.その 結果,WDMやEthernetなど下位層に位置する通信技術の発展があってもそれをIP層においていったん収斂することが可能になる.
  2. ネットワーク層の機能は最小限,すなわち,送受信ノード間のパケット到達性の確保に抑え,新しいアプリケーション要求に柔軟に対応で きるようにしておく.インターネットはもともとデータ通信用であったが,輻輳制御をTCP,すなわちエンド間プロトコルにおいて実現した. その結果,ストリーミングや音声通信も可能になっている.
などがその成功の要因と言ってよいであろう.もちろん,インターネットにおいても常にこのような認識の下,技術開発が行われてきたわけでは ない.エンドホストの高速化やアプリケーションのマルチメディア化,高度化に伴って高まり続けるユーザのさまざまな通信品質(QoS: Quality of Service)要求を満たすためのしくみとして,インターネットの標準化団体であるIETFにおいてもIntServ(Integrated Services)アーキテク チャがかつて標準化され,将来のマルチメディアネットワークの基盤となることが期待された.しかし,スケーラビリティおよび現行のネットワー クからの移行(Deployment)に関する問題が指摘されるようになり,その活動は頓挫した.IntServの反省に基づいて考案されたのがDiffServ (Differentiated Services)である.そこではQoS保証はあきらめ,QoSに関するコネクション間,あるいは,同種のアプリケーションごとに束ね たクラス間の差別化に留めることにより,上述の2つの問題点は解決されたかに見えた.しかし,DiffServアーキテクチャにおいても管理サーバ の導入やエッジノードと管理サーバ間の通信プロトコルは必要であり,また,ドメインをまたがる場合にはサーバ間の通信プロトコルも必要にな るなどの問題があり,広く利用されるには至っていない.

これらIntServとDiffServに共通する問題点は以下のようになる.IntServ ではQoS保証のために,送受信ホスト間のすべてのルータにおいてネッ トワーク資源を確保する必要がある.そのために,途中経路をあらかじめ決めておく必要があり,通信中にルータや回線の故障があるとそのしく み自体が破綻する.これはDiffServにおいても共通する問題である.特に,モバイル通信技術が発展すると,たとえ故障が発生しなくとも, エンドホストが移動するため,エンドホスト間のパスは固定的に存在するという仮定自体が成立しなくなってしまう.また,無線通信環境の品質変動はコネクション時間に比して大きくないため,利用可能帯域が変動するために安定した通信自体がそもそも仮定できなくなる.

一方,Webシステムに代表されるサーバ主体のネットワークの持つシステムの脆弱性,スケーラビリティの欠如,サーバボトルネックによる性能限 界などの問題を解決するものとして,エンドホスト間の直接的な通信によってサービスを実現するP2P (Peer-to-Peer)ネットワークが登場して きた.P2Pネットワークを導入し,サーバ主体のWebシステムから脱却することによって,耐故障性やスケーラビリティを確保できること,サーバ を介さない「中抜き」によってサーバやネットワークの初期導入コストや管理コストを削減できること,その結果,情報システムの運営者,管理 者が不要になること,などが期待された.また,サーバを介さず,ユーザがさまざまなコミュニティに属することができるようになるため,情報 化時代における自律・分散・協調による主体的活動を促進できるようになる.しかし,必要な情報を発見するためにネットワーク全体に問い合わ せをフラッディングするピュア型P2Pと,メタ情報(情報そのものの所在を示す情報)を管理するサーバを導入することにより検索効率を向上する ハイブリッド型P2P の対比にみられるように,P2Pネットワークにおけるスケーラビリティと耐故障性,性能は相反の関係にあり, 最終的な解はまだ得られていないのが現状である.

以上の例にも見られるように,ネットワークにおいて直面する問題が与えられた時,それらをひとつひとつ解決していくことは困難なことではない.難しい問題は,

  1. ) 現状におけるハードウェアやソフトウェア技術の限界を知り,また,将来にわたる技術限界を予測しつつ,
  2. ) 現状,および,将来にわたって必要とされるネットワークサービス像を明らかにした上で,
  3. ) 全体の調和を図るネットワークをデザインする
ことである.これがネットワークアーキテクチャであり,その構築を行うことがわれわれの研究グループの目指すところである.

その際に参考になるのが,インターネットの設計原理であるEnd-to-End原理である.これは,特定のアプリケーションに基づいて,あるいは,特定のアプリケーションのサポートを目的としてネットワークを構築してはならない,極言すれば,ネットワークはビットを送信ノードから受信ノードに運ぶことに徹するということである.すなわち,インターネットの場合には,ネットワーク層はできるだけシンプルにし,サービスやアプリケーションはエンドホスト,あるいはエッジノードで実現するということを意味する.この原則に基づいてネットワークを構築することによって,インターネットはそのメリットを享受して発展してきた.ネットワーク設計・構築時には,将来どのようなアプリケーションが登場するか当然わからない.むしろ,設計時に想像できないようなアプリケーションが登場することこそが,情報ネットワークにおけるイノベーションと言えよう.WWWシステムなどはまさにその一例である.逆の例がインターネット上での電話通信(VoIP)である.もともとデータ通信を主目的としてきたインターネットにおいて,従来の電話網品質を目指した電話通信を実現しようとすれば,その実現機構が肥大化することは当然とも言える.すなわち,データ通信アーキテクチャを採用しているインターネットに適した音声通信のあり方をまず考える必要があろう.

1.2 将来のネットワークアーキテクチャの方向性

今後のネットワークアーキテクチャに必要とされるキーワードは,以下の3つであると考えている.

  1. 拡張性(スケーラビリティ):インターネット利用人口の増加は言うまでもなく,センサ機器の増大,情報家電の普及など,インターネットに接続される情報機器端末の数は今後ますます増大する.また,それらの機器は当然,モバイル環境において利用されることが前提になる.その結果,ネットワーク資源の管理方法も当然変化せざるをえず,また,ルータ数やエンドホスト数,ユーザ数の増大に対応可能としておく必要がある.
  2. 多様性:ネットワーク技術はますます多様化している.無線LANや第4世代 技術などによる無線回線,DSLやFTTH技術などのアクセス回線,ギガビットイーサなどのLAN,光通信技術によるバックボーン回線など,さまざまな高速化技術が開発されつつある.その結果,過去たびたび提唱がなされてきたような単一のネットワークアーキテクチャによる統合ネットワークはもはや存在しえず,その結果,安定した通信回線をエンド間で提供するような通信形態の実現もあり得ないということになる.また,情報機器・デバイスの多様性からネットワークに流入するトラヒックの特性はますます多様化する.
  3. 移動性:モバイル環境においては,利用者自身の移動を考慮しなければならない.そのためには,柔軟なネットワーク制御が必要になる.さらに,通信相手となる他の利用者にとっては,ネットワーク資源そのものの移動や生成・消滅までもが頻繁に発生することを意味することになる.また,P2Pネットワークのように情報資源提供者がサーバではなく,ユーザである場合,コンピュータをネットワークから容易に切り離すことも考えられる.さらにモバイル環境では,ルータ自体が移動する可能性がでてくる.

以上3つのキーワードを前提とすると,「すべてのユーザの通信要求を満たす」単一のネットワークアーキテクチャが存在しえないことは明らかである.それよりも,エンドホストの適応性(adaptability)向上を根幹とし,ネットワークはそのような適応性をサポートするための機構を提供することを基本原理としていく必要がある.そのためには,エンドホストはネットワーク状態を自律的に実時間で知る必要があり,ネットワーク計測技術を根幹したエンドホストの制御が必須になる.また,トラヒック変動だけでなく,ネットワーク資源の変動などあらゆる環境変動に対処可能にするためには,ネットワークはエンドホストの適応性を前提とした自己組織型制御が重要になる.このような研究の方向性は,バックボーンのインフラストラクチャとなるフォトニックネットワークにおいても例外ではない.

インターネットはもともと分散指向といわれているが,実際にはそうではない.例えば,IP経路制御は分散志向であるとよく説明されているが,決してそうではない.現状のIP経路制御は,完全な分散制御ではなく,分散集中型あるいは協調型分散型と呼ぶのが正確である.例えばIP経路制御のひとつであるOSPFにおいては,すべてのルータ(エンティティ)が独自の判断によってパケットフォワーディングをするという意味では分散型であるが,すべてのルータが同一の情報を集めて,同一のネットワークトポロジーを持つことを前提に同じ動作をすることが前提である(集中分散型).また,他ルータも同じ振舞いをすると期待して動作する(協調型分散).完全な分散制御でないことが,ネットワークの耐故障性の弱さにつながっている.このような問題を解決するためには,上述の多様性,拡張性,移動性を前提に,分散処理指向をさらに推し進め,しかし,それによって損なわれるであろう資源利用の効率性については,エンドホストの現状のネットワークの状態に対する適応性によって補償していく必要がある.また,そもそも,効率性を追求することは,これまでの情報ネットワークにおいては至上課題であったが,技術の進展によって性能はすぐに向上する.効率性よりも,耐故障性や適応性,スケーラビリティなどを向上できるネットワークアーキテクチャこそ今求められているものである.その結果,今後も開発されていくであろう多様な通信技術に対応することが可能になり,ユーザの多様な要求に対するサービスも提供できるようになる.

そのためには,個々のエンティティが自律分散的に動作し,全体では意図する制御が実現されるようなネットワーク,すなわち,自己組織型ネットワークを構築していく必要がある.また,今後もネットワークの階層構造は機能分割,機能分担という意味で重要な概念であり続けると考えられるが,その際にも,縦方向のエンティティである階層構造をより柔構造にしておく必要があろう.すなわち,従来のように階層を完全に分割するのでなく,上位層,下位層の状態に適応可能な制御構造を有するネットワーク,すなわち,自己創発型(エマージェント)ネットワークを構築していく必要がある.このような考え方は,複雑適応系の考え方そのものである.現状のインターネットも,それが人為的に作られたものにも関わらず,人が設計可能な範囲,制御範囲を超えつつある.複雑適応系としてインターネットを捉えることにより,大規模システム全体の振る舞いや設計手法,非線形システムとしての安定性,故障の連鎖反応の影響,ロバスト性等を解明し,最適性や最適解への収束速度を明らかにする等,その理論的役割に期待できるところは大きい.それらの過程を経て,人為的に設計・構築されたネットワークを結果として制御可能なものにしていく必要がある.

特に,エンドホストの自律性がますます要求されるようになると,それを前提として,ネットワーク全体の調和的な秩序が必要となる.これは適応複雑系においてまさしく議論されているところであり,それらの知見を活かすことの可能性が見えてくる.実際,これまでのインターネットにおいても,適応性を有する,また,頑強性や安定性を確保するシステム構築を行ってきた結果として,複雑適応系としての特徴が一部見られる.自己組織化制御はまさしくその特性を有するものであり,現状のインターネットでも採用されている考え方を推し進めると自己組織化ネットワーク,さらには,複雑適応系としてのネットワークに行き着く可能性が十分にある.その傍証が,P2Pやルータの接続関係において観測されているべき則である.その理由として,自己組織化,ダイナミックな成長,多くのエンティティが起こす相互作用などが原因として挙げられている.これらは今後のネットワークの目指すべき方向とまさに合致しており,結果としてべき則が見出される可能性も十分にある.現在,べき則に関する科学的研究は,統計物理学,応用数学,社会学,経済学,生物学などで活発に行われており,これら異分野の成果を情報ネットワーク技術の進展に応用していくために,以下のように科学と技術の融合が重要である.

1.3 科学と技術の融合に基づく新しい情報ネットワーク科学の創出

われわれが推進しているネットワークアーキテクチャに関する研究は,以下の反省に基づいたものである.インターネットも含めてこれまでのネットワーク設計において,理論的な研究成果が技術の実現に活用された例は決して少なくない.特に従来は,待ち行列理論やトラヒック理論,ゲーム理論,最適化理論などの応用数学と密接に関連して研究開発が進められてきた.しかし,これまでの理論的研究は個別技術を対象としたものが多い.アーキテクチャは,本来,技術的手法と科学的手法の融合によって生まれるべきものである.しかし,現在,科学と技術の乖離があらゆるところで問題になっており,これは情報ネットワークの研究開発においても例外ではない.「科学的手法」は,すでに存在しているシステムに内在する普遍的な法則を探求するために,対象をモデル化し,数学的議論によって対象の性質を明らかにするものであり,一方,「技術」は新しい機能を実現する具体的な方法を案出し,モノを作り,利用するためのものである.本来,技術は,科学的手法から導いた性質をもとに新しい機能を実現するためにモデルを考え,実システムに適用することが重要であるが,従来はこの視点に欠けていたのが実情である.すなわち,科学的手法によって得られた性質に基づき,それを技術として組み上げることが,アーキテクチャ構築の本質であるにも関わらず,従来はこのような循環がうまく機能していなかった.このような乖離が生じた理由は,例えば,情報ネットワーク分野においては,これまで用いられてきた理論が応用数学の借り物であり,情報ネットワークのために生まれた科学ではなかったことが大きい.また,以下のような現実的な問題もある.これまでの理論的手法は,現状および近未来の技術水準に基づくサービス品質の最適化を主眼としてきた.最適化の問題を容易に扱えるために,ネットワークシステム全体の最適化ではなく,ある階層やあるプロトコルを対象として最適化がなされてきた.情報ネットワークは階層化構造がとられているため,下位層は安定した構造を持ち,上位層からの要求を入力とすれば,このような仮定は十分に成立しうる.事実,インターネットにおいても,すでに,さまざまな小さな機能が追加されてきており,部分的な機能を最適化することは現実にも可能であった.また,特定の制御方式,プロトコルを対象とした最適化を行えば,階層すべてに渡ってこの作業を繰り返せば,最終的に全体のアーキテクチャの評価が可能になるという論理も成立しうる.しかし,もはやこのような仮定は成立しない.今後,適応的な情報ネットワークを実現するには,階層間の相互作用がよりダイナミックになるためである.

新しいネットワーク科学を創出することは容易ではないが,上述したべき則,自己組織化,自己成長,複雑適応系,創発性,非平衡系など,そのためのキーワードはすでにいくつか出現しつつある.また,われわれが推進している生物の様態,特に自己組織化に学ぶネットワーク制御に関する研究開発の重要性は,以下の点にある.

  1. 生物の自己組織化に学ぶことによって,適応性,耐故障性に優れたネットワークシステムの実現可能性があること.
  2. 生物システムにおいても,べき則,複雑適応系,創発性などの議論は盛んになされており,また,単に生物学だけでなく,物理学,応用数学,社会学などさまざまな分野における同様の取り組みによって,幅広い知識の融合が図れること
  3. 自然界の生物システムを変更することは容易ではないが,情報ネットワークは制御可能なシステムであり,巨大な実験場として他分野に供することが可能である.また,情報ネットワーク分野で得られた知見を他分野に示すことによって,互恵的な真の融合モデルを構築することも可能であること
今後は,これらの視点に基づき,新しいネットワークアーキテクチャの構築に向けた研究開発を進めていく予定である.

[参考文献]